「八王子の歴史と文化を尋ねる」その6
墓誌識千人同心
(ぼしに しるす せんにんどうしん)
− 八王子 −
CEC社内報「CHUO」'95 夏季号 VOL.10 より
徳川の関東入国とともに、武蔵、甲斐の国境警備と言う軍事的役割を持った、
八王子千人同心は、
江戸幕府が政治的経済的に安定期をむかえると、幕府の保安警
察の役割に加えて、城などの建築物の修復、調査、未開発地の探索、地誌編纂な
ど、さまざまな文化的事業にもかかわりあいを持つようになり、多くの武人、学
識、スペシャリストを輩出しました。
近くは江戸風俗、文学考証の第一人者である「三田村鳶魚」は千人同心の出とい
われていますし、また、滑稽本「東海道中膝栗毛」の著者「十返舎一九」の親も
同じく千人同心の出身で、一九のお墓には「元八王子同心の子」の文字が刻まれ
ているそうです。
このように、八王子の歴史、文化を尋ねる時、この地の文化の醸成に大きな役割
を果たした千人同心の存在を省くわけにはいきません。今回は市中の古刹(こさつ)
に彼等の足跡をしるす墓誌をたずねます。
千人同心の組頭で戸吹村の名主でもあった坂本戸衛門の長男、坂本三介方昌は、
幼少より剣の技に才があり、当時、江戸両国に、天真正伝神道流の道場を構えて
いた、近藤内蔵助長祐の知遇を得、のちに長祐の編み出した新剣法、天然理心流
の免許皆伝を許され、ニ代目となり、近藤三介を名乗りました。
幕末の混乱期に活躍した近藤勇は、この流派の四代目で、滝山街道戸吹の交差点
の先を、山の手に向かって右に折れたところにある
曹洞宗治龍山桂福寺
(1832年、鐘楼山門は市指定文化財)
境内に、近藤三介の墓と碑が建てられています。
中央高速八王子インターチェンジの北側に、地誌に関して、多くの著書をのこし
た同心組頭植田孟縉の碑がある
宗徳寺があります。
孟縉は、もと吉田藩の藩医の
子弟、前名を熊本自庵、後年、千人同心組頭植田家に養子として入り、十兵衛と
名のりました。号を孟縉。おなじ千人同心組頭塩野適斉
とともに、武蔵国(関東平野の西側ほぼ全域)の地理、歴史、風俗を記した『新
編武蔵風土記』の編纂に従事するかたわら、家職でもあった日光勤番の合間に書
き記した『日光山誌』や、『武蔵名勝図絵』、『鎌倉名勝図絵』、『日光名勝考』
などの書物を記述上梓した、地理風俗、歴史に精通した大碩学でした。今ある碑
は昭和30年にたてられたものですが、墓誌は明治23年当時の物といわれてお
り、才気の人らしい洒落たつくりで、境内に独特の雰囲気を醸しだしています。
案下街道(陣場街道)下恩方あたりで脇道を南にそれたところにある、
深沢山心源寺の
境内には、伊藤猶白とともに、多摩の地にはじめて蘭学をひろめた一人、
小谷田子寅の碑が建てられています。子寅は1761年、川口村の千人同心組頭
の家に生まれ、幼少より勉学を好み、長じて医学、天文学を修め、とくに村民の
求めに応じて投薬診療をわけへだてなくおこない、多くの村民から慕われました。
院内の碑は、この善徳をたたえるもので、同じ千人同心
塩野適斉の撰文、植田孟縉の書に
なるもの、八王子市指定の史跡となっています。
江戸時代の北方探検の第一人者、最上徳内が、武蔵国八王子に滞在したおり、交
友を深めた千人同心の一人が松本斗機蔵です。その出自は下総千葉氏といわれて
いますが、後に千人頭松本家に養子に入りました。長じて
塩野適斉に漢籍を学ぶ
かたわら、湯島の昌平黌にはいり、屈指の博覧強記と謳(うた)われたそうです。
また徳内等との交誼を通して、多くの外国地誌の蔵書を得、1837年鎖国の可
否を論じた「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を著わしました。また、渡辺華山、
高野長英らとも交友があり、後年にこれらの学識との知己によって涵養(かんよう)
された識見をかわれ、浦賀奉行に任じられましたが、1841年、赴任をまたず
して病死しました。宗格院に
ある墓所は東京都の指定旧跡となっています。
植田孟縉
とならんで、「桑都日記」を記述した著述した塩野適斉も千人同心出身
の文人、学者として忘れてはならない存在です。適斉は、千人頭河西知礼の次男
として生まれ、幼名は河西知哲、後に同じく千人頭の塩野光延の養子となり、適
斉と名乗りました。養父から剣道、拳法の教えを受けるかたわら、漢籍のてほど
きを受け、後年、孟縉とともに、「武蔵風土記、相模国風土記」の編纂に加わり
ました。市内極楽寺 境内には、
都の指定旧跡となっている、塩野適斉の碑が建て
られています。
− 終わり −
7. 名木古木探訪
5. 絹道栄枯盛衰
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